こんにちは。ぽんたです。
今回は鹿児島県にある「薩摩隼人戦史館」に行ってみました。
戦史館とは、主人が戦争当時使われていたものを収集して公開しているところらしいです。あまり詳しい情報はなし。

アクセス
鹿児島県霧島市隼人町野久美田5540
隼人駅から車で約11分
隼人駅からバスで約15分 永浜下車 バス停から徒歩約15分
ぽんたは隼人駅からバスに乗り永浜駅から歩きました。
戦史館、見ればわかりますがかなり怖いです。てか入り口すらどこだかわからない状態。。。入り口が3つくらいあります。
戦史館についてはいろいろと調べて行ったのですが、Googleで検索してもあまり情報がない上に、「怖かったので入りませんでした。」などの意見が結構書かれていました。
確かに怖かったですが、意を決してひとつの入り口を入ってみました!
すると奥からおばあちゃんが「こんにちは。」フレンドリーなおばあちゃんです。「なんか食べて行くかい?」その言葉に甘えて入店してみることに。。。

これが店内です。綺麗とはお世辞でも言えない状態。お店はかなり広かったのですが、奥が暗すぎて写真では全く見えないですね。。。

価格破壊もいいレベル!丸亀製麺のようなチェーン店ではないのにこのお値段!
おじいさんも店の奥から出てきたのでおすすめを聞いてみたところ、からあげが美味しいとのこと。「5分はかかるけど大丈夫かい?」
ぽんたは「全然時間あるんで大丈夫ですよ。」
店内には、古いラジカセや新聞の切り抜き、完全に使わなくなってるスコップとか鍬とか、農業に使うようなものばかり点在していて、物置のような状態でした。
おばあちゃんが奥で料理を作っている間、おじいちゃんと色々と話しました。「どこから来たのか。」「仕事は何してる。」まぁよくある普通の質問ですね。
。。。料理まだ??。。。20分経ってますが。
やっと出てきたのがどーん!

不味くはない。。。まあ、普通かな。これに味噌汁がついています。さらにコーヒーをサービスしていただきました。でも潔癖には少々きついかもしれないですね。。。
ここからが本題です。この料理が出てきたところ。ここが「軍国酒場」と呼ばれているところで、ぽんたが行きたい「戦史館」は3つある入り口の中の左扉から入るようです。
おじいちゃんに先導されて扉を開きました。そして、いきなりドデカいミサイルのお出ましです。

これは真珠湾攻撃を実行するために、零戦が練習用に使っていたものらしいです。いくら練習用(中身はセメント)だとしても、この大きさの弾を見るのはかなり衝撃です。実際同じサイズの弾が真珠湾攻撃で使われているということになるからです。
少し進むと戦史館本館の入り口までやってきました。
今度はかなり大きな両扉をこじ開けます。

今度はかなり大きな空間に戦争で使われていたもの、写真などが多く展示されていました。

実際に使われていた洋服です。

数々の練習用の弾です。

特攻前日に撮影された方の写真だということです。もちろん特攻で亡くなっています。

千人針を施した洋服です。千人針とは、千人の女性が服に糸で結び目を縫い付け、兵士の無事を祈ったもの、又はお守りのこと。ぽんたは本物を初めて見ました。

案内してくれたおじいちゃんはこの人間魚雷の写真を見せて、「この内の1人が私のいとこでね。そのいとこは1週間後に人間魚雷として出動しなさいって要請があったんだよ。でもね、その要請の翌日終戦を迎えたんだ。いとこは帰ってきて俺になんて言ったと思う?“俺は戦って死にたかった!”って言ったんだよ。」
そんな話をするおじいちゃんは笑っていました。
「私もね。あと1年もすれば、戦争には行くことになっていた。」笑いながらいいます。
おじいちゃんが12歳の時に終戦を迎えています。なので当時は13歳で徴兵されていたということになります。
国はこのことを隠そうとしているのでしょうか。確か15歳以上じゃないと徴兵できないという法律があったと思います。
当時の鹿児島、特に沖縄本土の戦いにおいては「鉄血勤皇隊」という13歳くらいの少年が強制的に徴兵され、今で言う自爆テロのような行為をしていたのです。
こんなことを話すおじいちゃん。
なんでだろ、なんでこの写真の前で、、、笑っていられるの??
戦史館の中は結構広く30分くらいかけて色々見て回りました。おじいちゃんも色々と説明してくれました。もうこのおじいちゃん、めっちゃフレンドリーです。
戦史館本館から出てすぐのところにもう1つ、昔使っていた飲み屋(軍国酒場)があるということで、見させていただきました。
個人的にはここが1番不思議なところでした。


つい最近まで、この空間で昔の仲間、戦争に生き延びた人や戦争で苦しい経験をした人と軍歌を歌っていたそうです。

戦争で亡くなった方の写真がこんなにある中で、実際に使われていた機関銃がある中で、軍歌ですか。。。しかも、おじいちゃんは急に軍歌を大音量で流し初めました。なんでこんなに楽しそうなんだろうか。。。
ぽんたの中には疑問しか残りません。
この人戦争を楽しんでいたのか。。。
ぽんたの目の前で笑いながら軍歌を歌っているのです。
ぽんたは聞いてみました。「おじいちゃんは戦争をどう思っているのですか?」と。
おじいちゃんは「戦争なんて絶対にしたらいけない!だって何が残る?何が生まれる?何も生まれないんだよ。ただただ悲しい。ただただ苦しい。それだけだよ。」
笑っていたおじいちゃんはもういません。
「旗を振って送り出した近所のお兄ちゃん達が帰ってこなかったのを思い出すとね、今でも悲しくなるんだよ。思い出してしまう。」
「私がこの戦史館を作ったのは、葬いの気持ちなんだよ。毎日供養する気持ちなんだよ。政治家は靖国神社に年に一度しか行かないだろ?私は靖国神社ではないけれど、戦史館にいつも手を合わせに行ってるんだよ。」
そう言われてみれば戦史館の1番奥に小さな神棚があった気がする。そんなことを思い出しました。
おじいちゃんが軍歌を歌う理由も聞きました。
当時は戦争で死ぬのが当たり前で、死ぬのが怖いや死にたくない、戦争に行きたくないなんて言える人はいなかったようです。
そして、戦後も「戦争に負けてよかった」なんて言う人はほとんどおらず、もはや言えるような状態でもなかったのです。戦後すぐも戦争の圧力みたいなものがあったと言っていました。そして、男も女も子供も口を閉ざしてしまったのです。
そんな人たちのために、お酒を飲んで吐き捨てる場所を作りたかったと言っています。みんなで飲んで軍歌を歌うのは葬いの気持ちで、死んでしまった人たちと一緒に楽しい時間を過ごそうということだったのです。
戦争で亡くなった人のために、戦争で深い傷を負った人たちが昔はこぞって集まっていたらしいです。
あの頃を忘れないためにもこの施設は続けていきたいと言っていました。
「あと戦争が1年延びていたら、私も戦争に行ってたなぁ」と笑いながらに言っていた時、
行かなくて済んだという笑いなのか、恥をかいたなぁという失笑なのか、当時のおじいちゃんはどういう気持ちだったのか、そして今はどんな気持ちでその時を思っているのか、ぽんたにはそれはわからないです。
「お国のために死ぬのが当たり前なんて、西郷さんの時代までだよなぁ。昭和に入ってからもサムライの心得的なのを待ち続けるなんておかしいよなぁ。」
こんなことを悲しい顔で言わせてしまったおじいちゃんには少々申し訳ないと思っています。
ただ、貴重な資料もおじいちゃんの話もとても勉強になりました。
戦争を経験した人が減っている中、自分はもっと戦争経験者の話を聞きたいと思っています。資料では伝わらない思い入れなどが必ずあるんだなと、おじいちゃんからそして、おばあちゃんから(おばあちゃんの思いは帰り際に話しました)強く感じました。
最初は面白半分で行こうと思った「戦史館」ですが、中を掘り下げたら、B級で留めていてはいけないスポットだと感じました。
鹿児島に行く機会がある方は是非!!